4 多摩湖の近代
4−1 狭山貯水池愛護会と機関誌「狭山」
世の中がまだ混乱を極めていた戦後間もないころは、水質保全のための貯水池周囲の水源林は荒らされ、山林の盗伐、山火事の発生など見るかげもない状況でした。600ヘクタールにおよぶ山林を被う落葉は、肥料として農家にとっては渇望の的でした。
当時の貯水池事務所長の儘田吉之助氏は、たまたま視察に来た村山の比留間安治東京府会議員に相談の結果、貯水池の愛護を目的とする会を作ることを決めました。
昭和22(1947)年、比留間議員の呼びかけで周囲9か町村の首長が集まり、同氏を会長にたてて「狭山貯水池愛護会」が発足しました。貯水池の正式名の村山・山口を総称して狭山と命名した背景には、狭山丘陵の渓間にできた両貯水池に関わる名称を狭山貯水池とするのが最も自然な感じだったのでしょう。
愛護会の運営を支える事業は、山林の落葉はき(くずはき)でした。愛護会が水道局から落葉の払い下げを受ける形で、区画を決めて周辺9か町村(元狭山、宮寺、三ヶ島、小手指、山口、瑞穂、村山、大和、東村山)に割り当てたのでした。くずはきの代金は、1反(約990u)につき130円でした。
事業費は、玉湖神社の祭典費や機関誌「狭山」の発行に使われました。機関誌「狭山」は、昭和22(1947)年の秋に創刊され、狭山貯水池愛護会の事業を円滑に進めるのに役立ちました。結局56号で終刊となりましたが、その間の事業には、鴨場の菖蒲植付、菊花展の開催、慶性門の移築、狭山湖駅伝の開始など、さまざまな取り組みがありました。
時代が進み市町村もベッドタウン化していく中で、農家の減少とともに落葉の需要も減り、愛護会事業の継続が困難となったため、昭和63(1988)年3月、当時の萩谷都議会議員をはじめ市町村等の役職員が水道局事務所に集まり、解散式が行われました。誕生から41年目のことでした。
機関誌「狭山」 |
4−2 村山ホテルと多摩湖ホテル街
昭和3(1928)年3月16日付の東京朝日新聞は、次のように報じています。「村山貯水池にしゃれたホテル。大自然公園計画に伴っておとぎ話のような建築」
3階建ての白い「村山ホテル」は、当時の早稲田大学教授十代田三郎(そしろださぶろう)氏の設計によるもので、客室29、娯楽室、音楽室、温浴場、史蹟研究陳列室等がありました。このホテルは、旧西武鉄道が行楽客誘致のために建設したもので、昭和3(1928)年5月末に完成しました。
ホテルが建てられた場所は、下堰堤の北側で、現在の西武園遊園地正門のあたりのようです。遠景には富士や丹沢の連山、眼下には水をたたえた湖と、宿泊した人々に喜ばれたということです。
その後このホテルは、第二次世界大戦で堰堤の補強工事に従事する人夫の宿舎に使われたため、荒廃していきました。昭和25(1950)年1月、西武鉄道は、遊園地(東村山文化園)の開園にむけて村山ホテルの大改装を行い、その名も「多摩湖ホテル」と改称してオープンさせました。しかし昭和36(1961)年秋には、この多摩湖ホテルも取り壊されてしまいました。
大岡昇平の「武蔵野夫人」(昭和25(1950)年発表)にもこのホテルは登場し、貯水池の地理や状況がよく描かれています。小説「武蔵野夫人」は、小金井の野川に近いハケを舞台に、大学教授の貞淑な妻道子と、戦地から復員してきた従兄弟の勉との間の微妙な心の動きを描写した心理小説です。その中で、二人が多摩湖に遊ぶ場面があり、ここで突然の台風(昭和22(1947)年9月のキャスリーン台風)にあってしまい湖畔のホテルで一夜を明かすことになるのですが、そのモデルが村山ホテルです。この小説は翌1951年には、東宝で映画化(監督:溝口健二、主演:田中絹代、片山明彦)もされました。(「武蔵野夫人」村山貯水池と村山ホテルの場面)
現在、多摩湖畔には、地上6階建ての立派な割烹旅館「掬水亭」が建っています。またこれとは別に、村山上貯水池の南岸道路には、数件のラブホテルが連なっています。案内看板には「多摩湖ホテル街」とあります。
大岡昇平の「武蔵野夫人」 | 「武蔵野夫人」小説地図 |
映画化された「武蔵野夫人」(モノクロ) | 道子と勉が多摩湖畔に遊ぶシーン |
中国割烹旅館「掬水亭」 | 多摩湖ホテル街の案内看板) |
※ 国民宿舎湖畔荘
昭和38(1963)年、狭山湖畔に所沢市営の「国民宿舎湖畔荘」がオープンしました。(狭山湖堰堤北側の坂を登ったあたり)当時としては、手軽な観光地としての期待が大きかったのでしょう。結婚式なども挙げることができました。しかし、昭和59(1984)年には廃止されてしまいました。
※ 狭山青年の家
昭和40(1965)年6月、東京都青年の家条例に基づき、多摩湖畔に「狭山青年の家」が開所しました。(多摩湖下堰堤の南側:東大和市多摩湖4-694) 青年の家とは、青少年が宿泊を共にしながら、学習、スポーツ、レクリエーション活動を行うための施設でした。(八王子、青梅、狭山、五日市、武蔵野、水元、府中など7ヶ所に開設) 宿泊定員70人(8室)で、レクホール、研修室兼食堂、バレーコート、キャンプファイア場などがありました。しかし、老朽化が進んで青年の家を再編整備するため、平成14(2002)年3月に閉所されました。
国民宿舎湖畔荘の跡地 (現在=所沢市狭山湖第3駐車場) |
狭山青年の家跡地 (現在=都立狭山公園一時開放広場) |
4−3「東村山音頭」と「多摩湖小唄」の誕生
昭和30年代後半、世の中は平和を謳歌し各地で盆踊りが盛んに行われましたが、昭和39(1964)年の東京オリンピックの開催が近づくにつれ、「東京音頭」が歌われ踊られるようになりました。そのころ東村山町では、郷土を愛する気持ちから東京音頭にまねて東村山音頭がほしいという声が高まり、ことに東村山農業協同組合(榎本庄作組合長)の婦人部などからその要望が強く出されました。そこで昭和36(1961)年春、農協幹部を中心として、郷土民謡の制作が進められることとなりました。
当時、武蔵野市役所の水道部長で作詞家として有名であった土屋忠司氏に作詞を依頼し、土屋氏の名コンビであったキングレコードの細川潤一氏に作曲が依頼されました。土屋氏は、土地柄を見るため毎週のように東村山町を訪れ、多摩湖畔の料亭「堤新亭」に滞在し作詞につとめたそうです。こうして企画からわずか3か月という短期間で、郷土民謡の「東村山音頭」と「多摩湖小唄」が完成しました。
昭和36(1961)年7月、キングレコードによりレコーディングされ、「東村山音頭」(A面)は三橋美智也と下谷二三子、「多摩湖小唄」(B面)は春日八郎と大津美子が歌いました。踊りは、日本舞踊家、花柳流の花柳徳兵衛の振り付けとなりました。大スター歌手の三橋美智也や春日八郎が歌うには相当のお金が必要でしたが、当時の農協は麦がたいへん売れて儲かっていたからのようです。
「東村山音頭」と「多摩湖小唄」の郷土民謡の発表大会は、東村山町の協力も得て行われることとなり、小山林平町長や榎本庄作組合長らからなる「東村山民謡委員会」が組織されました。昭和36(1961)年9月3日、町の運動場(現市役所)にやぐらをかけ紅白の幕を張り、盛大な発表大会が実施されました。キング専属歌手による民謡と花柳門下生による踊りが披露され、地元婦人会が円陣を作ってレコードにあわせて踊りを楽しみました。近隣市町の名士多数をはじめ、町民五千人余りがつめかけたそうです。
その後、昭和39(1964)年4月1日には、東村山市制が施行されました。昭和51年、TBSテレビの「8時だよ!全員集合」において、ドリフターズの志村けん(東村山市出身)が「少年少女合唱隊」のコーナーで子供の頃にきいた東村山音頭をギャグにして大ブレイクし、東村山音頭は全国に知れわたりました。また、東村山青年会議所が中心となってパラパラというダンスの振り付けが作成され、平成13(2001)年7月21・22日には、第1回「東村山音頭パラパラコンテスト」なるイベントも開催されました。(2004年の第4回まで続いたようです。)
レコードジャケット | カセットテープ | 料亭「堤新亭」 |
A面 | 東村山音頭 |
1 |
東村山 庭先ゃ多摩湖 ソレヤレソレ |
2 |
狭山育ちは 器量が目立つ ソレヤレソレ |
3 |
百合の花さえ 来い来い呼んで ソレヤレソレ |
4 |
関東八州 八国山で ソレヤレソレ |
5 |
言わず語りに 伊豆殿堀を ソレヤレソレ |
6 |
はるか奥多摩 小河内ダムの ソレヤレソレ |
B面 | 多摩湖小唄 |
1 |
多摩湖よいとこ 東京のサロン |
2 |
なさけうつれば 逢いたいものよ |
3 |
旅の鴨さえ 帰ろうとしない |
4 |
多摩の流れを 羽村でそれて |
5 |
花にもみじに すてきな眺め |
多摩湖小唄 |
4−4 狭山湖駅伝から多摩湖駅伝へ
貯水池駅伝の構想は、地元のスポーツ愛好家にとって年来の宿望でした。第1回の狭山湖駅伝大会は、狭山貯水池愛護会と狭山陸上競技クラブの主催、隣接市町村の共催で、昭和26(1951)年3月21日、開催されました。
この大会のコースは、村山下貯水池1週8,300mを1区間とし、6区間全長49,800mを走るものでした。
当日は、からりと晴れた絶好の駅伝日和に恵まれ、東京、埼玉、神奈川、群馬の強豪54チームが参加し、一般の部、大学の部、高校の部に分かれ、熱戦を展開しました。開会式は10時30分に挙行され、大会会長森田茂作氏の挨拶があり、11時00分、審判長の号砲によりスタートが切られました。
抜きつ抜かれつの息詰まる熱戦の末、大学の部においては、中央大学が2時間47分47秒で優勝し王者の貫禄を示しました。高校の部では川越高校が3時間00分38秒で優勝、一般の部では戸塚アスレチックが2時間51分22秒で優勝しました。
この駅伝大会は、昭和56(1981)年の第31回大会まで続けられましたが、貯水池中堰堤の交通事情の悪化とともに、終了せざるを得なくなったのでした。
平成3(1991)年5月から、第1回多摩湖駅伝大会が、東大和市、東大和市教育委員会、東大和市体育協会の主催により、開催されるようになりました。近年は、毎年春分の日に行われています。キャッチフレーズは、「君よ湖をわたる風になれ」です。
当初の多摩湖駅伝のコースは、多摩湖自転車道と隣接する狭山公園の敷地を使って、上貯水池・下貯水池を1周するコースが設定されました。(1周=12.855km) 都立狭山青年の家前をスタート・ゴール地点として、反時計回りにこのコースを2周する4区間25.71kmの駅伝でした。(1・3区:4.5km(青年の家前〜多摩湖橋)+2・4区:8.355km(多摩湖橋〜青年の家前))
平成15年春から多摩湖の堤体強化工事が始まったため、第14回大会(平成16年3月20日)から、多摩湖通りと八幡通りを使って、都立狭山公園入口と東大和市郷土博物館を往復するコースに縮小されました。(往復=5.946km) 村山貯水池駐在所前をスタート・ゴール地点として、このコースを4往復する4区間23.784kmの駅伝でした。(村山貯水池駐在所前〜郷土博物館折返し〜都立狭山公園入口折返し〜村山貯水池駐在所前)
平成21年春に多摩湖の堤体強化工事が完成したので、第20回大会(平成22年3月22日)から、多摩湖自転車道と下堰堤、上堰堤横の自転車道を使って多摩湖の下貯水池を1周するコースとなりました。(1周7.242km) 村山貯水池駐在所前をスタート・ゴール地点として、反時計回りにこのコースを4周する4区間28.968kmの駅伝です。
第15回多摩湖駅伝大会(平成17年3月20日) | 狭山湖駅伝 出発・決勝ポール (現在は撤去中?) |
第20回多摩湖駅伝大会(平成22年3月22日) |
○ 日本初女子フルマラソン大会開催地記念碑「水の精像」
昭和53 (1978)年4月16日、「第1回女子タートルマラソン全国大会」が、多摩湖畔を3周するコースで開催されました。日本初の女子フルマラソン大会で、財団法人日本タートル協会が主催しました。(日本陸連公認の大会ではなかったそうです。)
参加者は49人で46人が完走し、沿道には約10万人の観衆がつめかけたといいます。優勝者は横浜の主婦、外園イチ子さん(37歳)で、タイムは3時間10分48秒だったそうです。
東大和市では、日本初の女子フルマラソン大会が多摩湖畔で開催されたことを記念して、記念碑を建立する計画が立案されました。平成26(2014)年3月21日(春分の日)に開催される多摩湖駅伝大会において、記念碑の除幕式を行うこととしました。
【記念碑のデザイン決定】
平成25(2013)年10月29日、東大和市の「日本初女子フルマラソン開催地記念モニュメントデザイン選定委員会議」が開催され、モニュメントデザインは武蔵野美術大学非常勤講師の西尾康之先生による「水の精」に決定されました。
「水の精」は、村山下貯水池におけるスポーツ振興を祈念し、「循環し続ける水」と「駆け続ける人」をイメージした女神像です。水の表現として、村山下貯水池が昭和初期に作られた水道施設であることから、同時期に高まりを見せた波頭表現様式を用いたそうです。
この決定を受け、「水の精」のミニチュア模型が制作され、「水の精像」の制作にとりかかりました。
【記念碑の除幕式】
平成26(2014)年3月21日(金・祝)、第24回多摩湖駅伝大会の開会式の前に、記念碑の除幕式が行われました。除幕式には、日本タートル協会関係者や、外園イチ子さんも来賓として参列され、「水の精像」(高さ約180p、ブロンズ鋳造)がお披露目されました。
「水の精」デザイン | 「水の精」ミニチュア模型 |
「水の精像」除幕式 | 水の精像 |
○ 多摩湖ランニングコースの距離標示
平成28(2016)年3月、東大和市は、ランニングやウォーキングの目安となるよう、多摩湖ランニングコースの路面に距離標示を設置しました。この標示は、日本初女子フルマラソン大会発祥地の記念碑「水の精像」を起点としています。距離標示は、各コースとも1qごとにあります。
・多摩湖全周コース(11.825q)
・多摩湖半周コース(7.242q)
・公園周回コース(2.407q)
多摩湖ランニングコースの路面標示 |
距離標示の設置 |
○ 武蔵村山市商工会主催のウォーキングイベント
武蔵村山市商工会では、平成16(2004)年から観光客誘致を目的に、軽便鉄道跡のトンネル群を歩いて回るウォーキングイベントを毎年秋に開催しています。昭和の初め、山口貯水池(狭山湖)建設工事のために、砂利・材料運搬用軽便鉄道が羽村から山口貯水池まで敷設されました。その後、羽村山口軽便鉄道跡は、武蔵村山市が昭和51(1976)年に野山北公園自転車道として整備しました。ウォーキングコースには岸たんぼのある里山民家などもあり、ゴールではトロッコに関するイベントが毎年趣向をこらして行われています。
残堀砕石場跡の横を歩く参加者 (平成19年10月20日) |
※ 残堀砕石場では、羽村から軽便鉄道で運ばれてきた砂利を用途に応じた大きさに選別砕石し、山口貯水池堰堤工事現場へ軽便鉄道で運搬しました。
4−5 多摩湖自転車道
多摩湖自転車道(保谷狭山自然公園自転車道)は、西東京市(旧保谷市)新町3丁目を起点に、導水路の村山境線の上を走り、多摩湖を1周して、東村山市多摩湖町3丁目までの全長21.9キロメートルのサイクリングロードです。(注:全長は、22.6km、23.5km、などの表示もあります)
途中には、東大和市立狭山緑地のフィールドアスレチックや鹿島休憩所があり、村山中央病院を下った観光農園ではみかん狩りなどが楽しめます。
導水路の羽村村山線の上を走る野山北公園自転車道へ分岐するかぶと橋付近で、最大標高地点(標高157.5メートル)となります。
山口観音の新しい五重塔をみて、狭山スキー場近くの吊り橋「たまこはし」では、自転車道随一の眺望が得られます。
たまこはしから見える慶性門(けいしょうもん)は、慶性院という寺の山門でした。上貯水池の西奥にあった同寺は南へ移転しましたが、山門は残され湖畔の藪の中で荒れていました。このため、狭山貯水池愛護会によって現在地に移築保全されました。
なお、かぶと橋付近を起点として導水路の羽村村山線上を走る野山北公園自転車道は、全長が約6キロメートルで、山口貯水池(狭山湖)建設当時の隧道(赤坂・御岳・赤掘・横田の4トンネル)を通ることができます。ただし、4トンネルは夜間はシャッターで閉鎖され通行止めになりますので、注意が必要です。終点は、米軍横田基地の手前です。なお、米軍横田基地と羽村取水堰の間は、神明緑道となっています。
多摩湖自転車道 鹿島休憩所 | 多摩湖自転車道 かぶと橋付近 最高標高点 |
山口観音五重塔 | 慶性門 |
横田トンネル(第1号隧道) (野山北公園自転車道) |
山口貯水池建設時の隧道 (玉湖神社東側のあかまつ橋あたり) |
※ 山口貯水池管理歩道
平成22・23・24年度で整備された山口貯水池管理歩道は、歩道幅3.5m、総延長約600mの盛土築造で、平成25(2013)年3月15日、全通開放される予定です。多摩湖自転車道(旧ブルーベリー横のT字路)から狭山湖入口まで、快適に通行できるようになります。
山口貯水池管理歩道 |
4−6 多摩湖にある句碑
多摩湖周辺には、句碑がいくつかありますので、紹介しておきます。
○ 浮寝して 湖のこころを 鴨は志る
司水(昭和33年4月29日建立):ブルーベリーの西側にあります。
本名:儘田吉之助(明治36年1月10日生)初代村山貯水池管理事務所長
○ 鵜は翔てり 月の面に とどかざる
青邨(昭和52年5月15日建立):山口観音の鐘楼堂の横にあります。
本名:山口吉郎(明治25年5月10日生)ホトトギス同人
○ 郭公や 狭山が丘も 深からず
俳小星(昭和24年6月建立):狭山公園の御休処湖畔店の裏にあります。
本名:斎藤徳蔵(明治16年2月20日生)ホトトギス同人、若葉同人
司水 | 青邨 |
俳小星 |
4−7 多摩湖を冠称した小説
題名に「多摩湖」が含まれている小説がいくつかありますので、紹介しておきます。推理小説がほとんどですが、多摩湖は地名として使われているにすぎません。また、多摩湖(たまこ)が人名として使われているライトノベルもあります。
○多摩湖畔殺人事件(内田康夫著)1984年(光文社文庫1984年)
丹波篠山にいるはずの父が、なぜ700キロも離れた多摩湖畔で死んでいたのか? 車椅子の美少女・橋本千晶は、父の死の謎をその明晰な頭脳で推理しはじめた。 [221588]この六つの数字は何を意味するのか? 「ハリのないハチ」とは何か? 千晶の執念は、鬼刑事の心を動かして、完璧のアリバイを誇る完全犯罪を追いつめる。
○多摩湖山荘(ログハウス)殺人事件(藤原宰太郎著)1994年(光文社文庫1994年)
推理トリック研究家の久我京介のもとに衝撃的な知らせが届いた。義妹・舟木美知子と彼女の夫・信正が、同じ日、別の場所で、相次いで事故死したのだ。現場・多摩湖畔に行った久我たちの前で、今度は銃殺事件が起きた。内部の様子がわからない密室なのに、被害者は外から正確に射殺されていた。
○多摩湖・洞爺湖殺人ライン(深谷忠記著)2006年(光文社文庫2009年)
女優から画家に転身した日下部沙織が、東京・多摩湖畔の自宅寝室で殺された。第一発見者は夫の稔。彼の経営する人材派遣会社は、資金繰りに窮していた。妻に1億円の生命保険をかけていた稔を警察がマークしているさなか、第二の殺人事件が北海道の洞爺湖畔で発生。編集者の笹谷美緒が、恋人の黒江壮とともに事件の謎を追う。二人は鉄壁のアリバイを崩せるのか?
○多摩湖さんと黄鶏(かしわ)くん(入間人間著)2010年(電撃文庫2010年)
Q:年上のおねえさんは好きですか? A:はい、俺は大好きです。 二ヶ月前から付き合いはじめた多摩湖さんは、年上だけど下級生という大人な女性だ。そんな素敵なおねえさんと、エロいゲームを密室でプレイする、二人っきりのカードゲーム研究会の魅惑の日々! でも本当にそれだけなんだよなあ。おっと、いちおう断わっておくけど、多摩湖さんと俺は、キャッキャ・ウフフなバカップルじゃない。二人だけのゲームにいそしむ変態カップルだから。…いいのか、それでー。(楽天的ラブコメディ)
多摩湖畔殺人事件 | 多摩湖山荘殺人事件 | 多摩湖・洞爺湖殺人ライン |
多摩湖さんと黄鶏くん |
4−8 スマホゲーム「ららマジ」に登場する多摩湖
スマホゲーム「ららマジ」は、アプリ制作会社「ライトフライヤースタジオ」が、2017年1月25日から配信開始した人気のロールプレイング・ゲームです。
東奏学園の器楽部に、調律師(チューナー)として入部したプレイヤーは、音楽の精霊ホニャとともに、「呪い」にかかり演奏への情熱を失った30人の部員たちの「心の音」を調律するため、彼女たちの精神世界で「ノイズ」と戦います。
「ららマジ」の舞台となる「東奏(ひがしかなで)市」は、「東大和市」がモチーフで、多摩湖、東大和市郷土博物館、東京都薬用植物園などが登場します。これに着目した東大和市では、地域振興に向け、2018年1月25日からホームページで、ゲームに登場する7か所の「舞台探訪マップ」や、各スポットの説明を載せています。
ららマジの一場面 | ららマジ探訪マップ |