開設日2004年3月7日 | 更新日2004年3月12日 |
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作者:龍人 |
最初に
僕は、2002年8月3日、原爆の図丸木美術館に行ってきた。とてつもなくむごい絵が、展示されていた。男か女かわからない人が焼けただれている絵や血まみれになった人の絵などがあった。本当にこの世のものとは思えなかったが、戦争というものがたくさんの尊い命を奪ったことを思い知らされた。
丸木美術館は2階建てで、クーラーがなくオシャレなイメージとはほど遠いガッチリした感じの建物だった。クーラーがないのは原発に反対の立場だからだ。いろいろな部屋に分かれていて、そこに「原爆の図」や「南京大虐殺」という絵などが展示されていた。
「原爆の図」の題名 (この図は丸木美術館のホームページから転載しました。)
1 幽霊 | 2 火 | 3 水 | 4 虹 |
5 少年少女 | 6 原子野 | 7 竹やぶ | 8 救出 |
9 焼津 | 10 署名 | 11 母子像 | 12 とうろう流し |
13 米兵捕虜の図 | 14 からす | 15 長崎 |
原爆の図は、どうしてうまれたか?
原爆が投下された当時、新聞社の人がとった写真は、広島と長崎がごっちゃになっていたし、広島の写真は数枚しかなかった。
そして終戦から5年後になってやっと世に出た。なぜなら占領治下で原爆という言葉さえ使えなかったからだ。丸木夫妻は、原爆投下の3日後に、広島に行っていた。現在のようにテレビがないので、目で見てわかるものが何もない。丸木位里さんは、「かける人間が、かき残しておかにゃ、形で見るものはない、これをかかなければしょうがないとおもってかきだした。」俊さんは、第一部「幽霊」を発表した時に「これ一つかいたから原爆の図をかいたと思った。」ところが見にきていた人は、絵描きが誇張したと言った。そこにいた被爆者がその言葉に反対して、自分の体験を一生懸命説明し、もっとかいてもらわないと困ると訴えた。丸木夫妻は、「それですんだと、おもっちゃおれなくなった。」
夫妻がかき始めたのは、原爆投下後、2〜3年のたいへん早い時期だったが、第15部をかき終えたのは、1982年であった。そして、その展覧会が平和運動になっていった。
原爆の図第3部 「水」の説明の中から
20世紀の母子像。傷ついた母が死んだ子を抱いている。絶望の母子像ではないでしょうか。母子像というのは、希望の母と子でなければならないはずです。
丸木俊さんは、たくさんの美しい絵本も書いている。20世紀のできごとを子供達つまり21世紀の人間に伝えるために。そしてそのなかに「とうろうながし」という本があるが、丸木美術館の前でもそのとうろうを作っていたので、僕と妹も参加した。僕は戦争が二度とおきないように願ってかいた。毎年8月6日になると、「ひろしま忌」が行われ、美術館の前の川にそれを流す。(僕たちもおりていったがあまりきれいではなかった。)聞いたところによると、流したとうろうは流しっぱなしではなく、下流で待機していた係の人の手によって回収されるらしい。
これに関する絵本はこう結んでいる。(どんなに とうろうを ながしても 死者たちは かえってくるのですね ヒロシマヘ でも だから わたしは とうろうを ながしつづけようと おもうのです この よのなかに核爆弾の あるかぎり)
原爆の図を見て思ったことは「こんなことはもう二度とおこってはならない。戦争はなにもかも破壊してしまう。命も家族もなにもかも」
だが現実に戦争はおこっている
2002年の9月11日、アメリカの世界貿易センタービルなどでおきた同時多発テロは、戦争が始まってしまう原因になった。ブッシュ大統領は「新しい戦争」を宣言し、アフガニスタンへの報復戦争は全世界の人々に大きな衝撃をあたえた。
さらに、2003年3月20日、大量破壊兵器をサダム・フセイン大統領が隠し持っているという理由から世界の反対をおしきってイラク戦争を始め、12月15日ティクリート近郊の農家の穴の中からフセイン大統領を拘束した!その後日本も人道支援の目的で自衛隊派遣し、今も復興支援活動を続けている。
報復が報復を呼ぶだけなのに、僕は、「戦争をしてなんの得があるのか、なんにも得なんかないはずだ。失うもののほうが大きいはずだ」そう思った。
戦争当時の学生の暮らし
(都会の)小学生は空襲を避けるために家族と別れて疎開した。中学生は必ず軍事訓練を受けた。女学生も労働力不足をおぎなうために農村や工場で働いた。大学生も勉強をやめて兵隊になり戦場へ行った。このように若者や大人は男女を問わずみんな強制的に働かされた。僕はとってもひどい時代だと思う。もう何もいえないくらい。
平和宣言
2002年8月6日広島は57回目の「原爆の日」だった。秋葉市長は、平和宣言で「憎しみと暴力、報復の連鎖」を断ち切るよう呼びかけ、「平和と人道の世紀」の創造に広島が努力すると誓った。「わが国を、戦争のできる普通の国にしないことです。すなわち核兵器の絶対否定と戦争の放棄です。その上でとくにアメリカ合衆国に伝え明日の子供達のために戦争を未然に防ぐ責任を有します。」と語った。
僕は、いつまでもこの悲惨なできごとが後世に伝わって、もう二度とこんな悲惨なことがおこらないといいと思った。
最後に
丸木俊さんのプロフィール
1912年 2月11日北海道雨竜郡秩父別町に善性寺の長女として生まれる(大正元年)
1933年 女子美術専門学校(現女子美大)卒業、
1941年 丸木位里と結婚 池袋のアトリエ村に住む
1945年 位里の郷里広島に原爆投下 救援活動に駆けつける
1948年 片瀬にて「原爆の図」を位里と共同制作始める
1950年「原爆の図」第1部〜3部を発表国内各地で巡回展
1967年 埼玉県東松山市に原爆の図丸木美術館を開館
1972年 「原爆の図」第14部完成 以後「南京大虐殺の図」「アウシュヴィツの図」
「水俣の図」「沖縄戦の図」等を位里と共同制作
1982年 「原爆の図」第15部完成
1995年 位里94歳で死去 ノーベル平和賞候補
2000年 1月13日87歳で永眠
原爆の図丸木美術館への行き方
池袋より東武東上線森林公園駅下車、タクシーまたは徒歩で3.5キロ
関越自動車道東松山インターより小川方面3キロ
東武東上線東松山駅東口より市内循環バス唐子コース浄空院下車徒歩5分
(ちなみに僕は家族と車で行きました。)
住所 埼玉県東松山市下唐子1401
電話0493 (22) 3266
Fax 0493 (24) 8371
http://www.aya.or.jp/~marukimsn/index.htm
参考文献
原爆の図 丸木美術館1996年
閃きの芸術流々人生丸木位里・俊の遺言 樹芸書房 2002年 平松利昭編
とうろうながし 松谷みよ子・文 丸木俊・絵 偕成社 1998年
2002年8月6日 朝日新聞