1 多摩湖の歴史

1−1 三つの貯水池

多摩湖の正式名称は、村山上貯水池・下貯水池で、二つの湖に分かれています。村山上貯水池は、大正13(1924)年3月31日に竣工し貯水量3,321,000立方メートル、村山下貯水池は、昭和2(1927)年3月31日に竣工し貯水量12,148,000立方メートルです。

一方、多摩湖のそばには、うりふたつな狭山湖があります。狭山湖の正式名称は、山口貯水池で、昭和9(1934)年3月に竣工し貯水量20,649,000立方メートルです。

通称 多摩湖 多摩湖 狭山湖
正式名称 村山上貯水池 村山下貯水池 山口貯水池
所在地 東京都東大和市 東京都東大和市 埼玉県所沢市
竣工 大正13年3月 昭和2年3月 昭和9年3月
満水時面積(km2) 0.406 1.108 1.893
満水時貯水量(m3) 3,321,000 12,148,000 20,649,000
ダム型式 心壁式アースダム 心壁式アースダム 心壁式アースダム
堤高(m) 24.24 32.55 34.98
堤頂長(m) 318.18 587.27 690.91

このように、多摩湖・狭山湖(村山貯水池・山口貯水池)に二つの呼び方が出来たのは、地元の者は地名の名前を呼称しましたが、鉄道会社は湖として宣伝価値を上げようとする意向があったためのようです。

当初、村山貯水池の工事は大幅に遅れ、その間に水不足が再び問題になりました。そこで東京市は、さらに水道拡張の調査を行い、隣接する埼玉県入間郡山口村に山口貯水池を新設することになりました。

多摩湖(村山下貯水池):堤体強化工事時 多摩湖(村山上貯水池)
多摩湖(村山下貯水池) 多摩湖(村山下貯水池)の取水塔
十二段の滝(余水吐き) 狭山湖(山口貯水池)

1−2 多摩湖の計画

徳川幕府が江戸開発を進めて出来たのが、羽村から多摩川の水を取り入れた玉川上水です。しかし、武蔵野台地を素掘りで流れる上水は、そのほとんどが関東ローム層の赤土に吸い込まれ効率が悪かったのです。そればかりか水路が開渠であったため、明治19年のコレラの大流行で、三多摩は神奈川県から東京府へ移管される契機にもなりました。

東京市は、水道拡張の早急な計画の必要に直面し、抜本的な調査設計を内務省の市区改正委員会に依頼し、明治42(1909)年4月、ドイツに留学した中島鋭治工学博士に委嘱しました。

中島博士は、多摩川の水源地をはじめとする山野を踏査し、明治44(1911)年12月、大計画をまとめあげました。それは、第1計画=大久野貯水池案(現日の出町)、第2計画=村山貯水池案の二つでした。結果的には、地形が良好で工費が安いということで、第2計画の村山貯水池案が、導水路の羽村村山線、村山境線を含め、採用されることになりました。

廃案になった第1計画(大久野貯水池案)

1−3 多摩湖の設計

大正元(1912)年10月、東京市は水道課に水道拡張準備掛を置いて、いよいよ具体的な仕事にとりかかり、翌年11月には中島鋭治博士を工事顧問としました。

村山貯水池の二つの堰堤は、同じ工法で作られています。近くの丘や高台を切り崩し、その土をつき固め積み上げて堤を作るやり方です。また、要所にはコンクリートを使うという近代的な技術を駆使して築かれました。土を主として築くので、アースフィル式ダムといわれるものです。土が主成分なので、当然のことながら堰堤の底は幅が広く、断面は傾斜のゆるい三角形になります。

大正5(1930)年6月4日、東村山村字回田の村山貯水池下堰堤の中央部あたりで、地鎮祭が小雨の中行われました。

なお、わが国最大のアースフィル式ダムは、岩手県紫波(しわ)町の山王海ダムです。昭和29(1954)年に完成した農業用のものであり、堰堤の高さは37メートルでした。その後、平成12(2001)年に旧ダムの下流そばに重ね合わせるような形で嵩上げした新山王海ダムが竣工しました。新しい山王海ダムは、岩と土でつき固めたロックフィル式ダムで、堰堤の高さは61.5メートルです。

岩手県紫波町の山王海ダム

1−4 多摩湖の建設

多摩湖の建設は、大正5(1916)年に着工しましたが、工事は人力が主であったため、昭和2(1927)年の完成まで、10年以上の歳月がかかりました。

貯水池工事の資材運搬のための軽便鉄道(通称:東京市軽便鉄道)が、東村山駅から上堰堤の下まで敷設され、小型蒸気機関車が2台往復したそうです。東村山駅から清水までは平地でしたが、そこからは隧道を通り下貯水池取水塔付近に到達できました。この隧道は、高木の宮鍋氏が請け負って掘ったので、宮鍋隧道といわれました。

多摩川の羽村取水堰から村山上貯水池までの導水路を羽村村山線と呼びます。導水路は、主に暗渠と3つの隧道(トンネル)でした。羽村村山線に沿って導水路工事のための軌条が敷設され、トロッコが工事材料を運びました。導水路が完成すると、軌条も撤去されました。導水路上は現在、野山北公園自転車道となっていて人々に親しまれています。

なお、現在の野山北公園自転車道の5トンネル(@横田、A赤掘、B御岳、C赤坂、D第5号:通行禁止)は、山口貯水池(狭山湖)建設時に敷設された羽村村山軽便鉄道の隧道です。上記の導水路とは、横田から村山上貯水池までの経路が若干異なるそうです。

また、上貯水池から下貯水池への導水路は、同取水塔から深く隧道を掘り、同堰堤南端下の湾入したところへ通じています。通水時には水位の関係で間欠泉のような水柱が噴きあがることがあるそうです。

多摩湖(上貯水池)へ通じる第5号隧道
(立入禁止)
上貯水池から下貯水池への導水路出口
昔あった水門の復元模型(1/2)
(水量調節のため村山境線にあった余水吐入口)
村山境線の第1号急下
(導水路の圧力を抜くために設けられたもの)

 

1−5 中島鋭治博士の頌徳碑

村山貯水池上堰堤の上端には、上下の貯水池を眺めるように中島鋭治博士の頌徳碑(しょうとくひ)が立っています。この碑は昭和11(1936)年6月、博士の門下生たちにより建立されました。根布川石を使い、高さ12尺(約3.63m)、幅5尺(約1.52m)の立派なものです。

その碑文には、次のように刻まれています。

「東京帝国大学名誉教授で土木学会長の中島鋭治先生は、わが国の衛生工学の権威で、東京市水道の恩人である。特に委嘱を受けて御所の水道をはじめ、東京市その他わが国都市の大半にわたって上下水道を計画施工した。水道鉄管の基準も先生が調査し定めたものである。先生の業績は天皇がお聞きになり、大正13年5月旭日重光章を授与された。先生の栄誉は大である。わが学会並びに水道事業界は、先生に依頼する所が多かったが、不幸にも大正14年2月17日に68歳をもって亡くなられた。先生の記念事業として日本水道史の編纂刊行を計画し、また先生と縁のあるこの地に碑を建て、先生の善行を刻して慕い仰ぐ気持ちをあきらかにする。」

中島鋭治博士の頌徳碑

 

 中島先生頌徳碑

東京帝国大学名誉教授土木学会長正三位勲二等工学博士中島鋭治先生ハ本邦衛生工学ノ泰斗ニシテ東京市水道ノ恩人ナリ先生ハ大学教授ニ在任シテ育英ニ努力スルコト実ニ二十有余年尚内務技師中央衛生委員都市計画調査委員トナリテ能ク其ノ任ヲ尽シ殊ニ嘱ヲ受ケテ宮城東京御所ノ水道ヲ首メ東京市其他我国都市ノ大半ニ亘リテ上下水道ヲ計画施工シ更ニ遠ク朝鮮満州ニ於ケル水道ノ施設ヲ指導監督シテ力ヲ其ノ完成ニ效セリ水道鉄管ノ基準ノ如キモ先生ガ蘊蓄ヲ傾ケテ調査創定シタル不朽ノ典型ナリ宣ナル哉先生ノ勲績ハ卑クモ天聴ニ達シテ大正十三年五月特ニ旭日重光章ヲ授与セラル先生栄与ヤ大ナリト謂フヘシ而シテ我学会竝水道事業界ハ仍ホ先生ニ倚頼スル所多カリシニ不幸ニ豎ノ為ニ大正十四季二月十七日齢六十八ヲ以テ溘焉トシテ薨ス曷ソ痛借ニ堪フヘケムヤ然レトモ先生ノ学徳功業ハ永ク後毘ニ垂レ其ノ勲績ハ不滅ニ赫耀ス我等水道研究会員ハ追慕措ク能ハス前ニ同志胥謀リ先生ノ記念事業トシテ日本水道史ノ編纂刊行ヲ企図シ今又先生ト因縁浅カラサル此地ニ碑ヲ建テ先生ノ功徳ヲ鏤刻シテ景仰ノ意ヲ昭ニス

頌日

  其道泰斗 与世属望 才学兼資 薀蓄深蔵 育英施化 指導授方
  神技樹策 規書必良 学徳ノ潤 功業之光 赫照千載 遺志誰忘

    昭和十一年丙子夏六月

東京市長 正三位勲一等 牛塚虎太郎 篆額
水道研究会理事長       井上秀二  ?
水道研究会員          大堀佐内  書

建設委員 井上秀二、岩崎富久、小川鉄三、小野基樹、大堀佐内、河口協介、草間偉、高橋甚也、仲田聰冶郎、西大条覚、野辺地慶三、原全路、藤田弘直、堀江勝巳、武藤麒駛郎、茂庭忠治郎、米元晋一、和田忠治

設計 井上清

工事監督 菅原正志、儘田吉之助、福田勇助

 

※ 中野f君之碑

「大正2年、東京市は水道事業の拡張を行った。その時に工学士中野昇氏が担当技師に任命され、工学博士中島鋭治氏の指導のもと、その業務にあたった。特に至難とされた村山貯水池の工事においては一所懸命に力を尽くして労苦し、大正14年7月4日病に倒れ亡くなられた。後の時代に村山貯水池を見る人は、その事業がどのようになされたかを考え、その人のことを忘れてはならない。」

中野f君之碑

  

 中野f君之碑

大正ニ年東京市水道擴張ノ擧アリ時ニ工學士中野f君技師ニ任セラレ工學博士中島鋭治君指導ノ下ニ其ノ業ニ従ヒ殊ニ至難トセラレタル村山貯水池ノ工事ニ盡瘁シ大正十四年七月四日病没セリ後ノ見ル人斯業ノ因ル處ヲ考へ以テ其ノ人ヲ思フヘシ

  

 

1−6 石畑給水所

多摩湖・狭山湖の水源林の西端、六道山公園「出会いの辻」の北東側に東京都水道局石畑給水所があります。

石畑給水所は、瑞穂町周辺地域(瑞穂町、武蔵村山市、東大和市、東村山市、立川市)の人口増加や生活様式の変化などによる水不足を解消し、事故時や震災時などの緊急事態が発生した場合でも飲料水を確保するための施設で、平成3(1991)年7月に完成しました。

鉄筋コンクリート作りで有効水深6mの地下式の配水池が2つあり、有効容量は3万?(1.5万?×2池)です。狭山丘陵に生息する動植物への影響を少なくするため、配水池を土で覆い植栽を施しています。ここから給水される飲料水は、主に小作浄水場などから送水されているそうです。

石畑給水所入口とエノキの木(根元に庚申塔あり) 石畑給水所の説明板

 

1−7 東大和市ブランド・メッセージ・デザイン

ブランド・メッセージとは、市の魅力や特長を短い言葉で表現したものです。

東大和市では、平成29(2017)年4月に「ブランド・プロモーション指針」が策定され、市のブランド・メッセージ『東京 ゆったり日和 東やまと』が決定されました。さらに市民投票の結果、多摩湖をモチーフにしたブランド・メッセージのデザインが、11月4日の第48回産業祭りのタウンミーティングのステージで発表されました。東京の都市でありながら自然とのバランスがとれ、子育てしやすく住みやすい、“ちょうどいいまち” 東大和市を表現したデザインとなっています。

市では、今後このデザインを活用して東大和市の魅力をアピールし、少子高齢化に伴う人口減少を少しでも抑制したい考えです。

東大和市ブランド・メッセージ・デザイン

1−8 ペットボトル「東京水」

東京都水道局では、安全でおいしい水道水のペットボトル「東京水」を販売・配布してきましたが、平成29(2017)年11月11日、ラベルのデザインが一新されました。新しいラベルは、江戸切子をイメージし「水」の文字が隠されており、採水地を象徴する取水塔がデザインされています。この取水塔のデザインは、多摩湖の取水塔のイメージです。また、色調は伝統色「瑠璃色」が採用されています。なお「東京水」には、東村山浄水場と金町浄水場のボトルがあります。

350mlボトル:イベントにて配布、 500mlボトル:都内販売所(1本103円(税込))、通信販売(1箱24本2570円(送料、税込))

 ⇒ 
ペットボトル「東京水」 取水塔のデザイン

 

1−9 金町浄水場の取水塔

東京都水道局の金町浄水場は、大正15(1926)年8月、「江戸川上水町村組合」の施設として開設されました。(昭和7年に東京市に引き継ぎ) 現在は江戸川から、2基の取水塔(第2取水塔、第3取水塔)により取水されています。

三角屋根の取水塔は、昭和16年に建設された第2取水塔で、その下流側にあるドーム型屋根の取水塔は、昭和39年に建設された第3取水塔です。さらに下流側にあった創設時の第1取水塔は、第3取水塔が作られた後、解体されたそうです。

2基の取水塔は、多摩湖・狭山湖の取水塔に非常によく似ています。

金町浄水場の取水塔

 

 

 

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