2 多摩湖の昔
2−1 昔は多摩湖と狭山湖が逆だった
今では、多摩湖・狭山湖の名称は当たり前に使われていますが、機関誌「狭山」第17号(昭和26年11月1日刊)によれば、昭和26(1951)年までこれらの名称は全く逆に使われていたようで、多摩湖が狭山湖、狭山湖が多摩湖だったそうです。すなわち、村山貯水池は狭山公園にあるので狭山湖、山口貯水池は多摩川から水を引いているので多摩湖の名称が通称として定着しつつありました。(注・村山貯水池も多摩川から水を引いていますが・・・)
ところが、毎日新聞社が西武線池袋駅構内で、「村山、山口貯水池に観光地としてふさわしい名称をつける改名署名運動」として、村山貯水池=多摩湖、山口貯水池=狭山湖という投票を実施したのです。その理由は、まず村山貯水池は北多摩郡に属するから多摩湖、また周辺の観光開発に着手した西武鉄道としても多摩湖線の名を意義あらしめるためにも村山貯水池は多摩湖とした方が都合が良い、さらに山口貯水池一帯も埼玉県側は県立狭山公園になっているので狭山湖でよい、などです。
西武鉄道はこのアンケート調査を踏まえ、昭和26(1951)年9月1日、多摩湖線の終点の狭山公園前駅を「多摩湖駅」と改称するとともに、同年10月7日、西所沢から分岐する路線の終点を「狭山湖駅」として再開させました。
こうして、新しい通称、村山貯水池⇒多摩湖、山口貯水池⇒狭山湖が正式名称以上に広く使われるようになっていきました。
機関誌「狭山」第17号 |
2−2 たっちゃん池の由来
現在、「たっちゃん池」の名で親しまれている都立狭山公園内の宅部池(やけべいけ)は、宅部の貯水池を略して、通称「ヤケチョ」と呼ばれていました。広さ1,000坪、深さ7メートルのこの池は、夏になると近くの子供たちが毎日のように泳ぎにきていました。
大正14(1925)年7月21日、焼け付くような昼下がり、折しも貯水池工事の真最中の頃、ちょうど昼休みで大勢の作業員が木陰で疲れをいやしていました。この日、たっちゃんは、妹をつれて池に遊びにきていました。家へ帰ろうとして妹は、池で遊んでいたお兄ちゃんの姿が見えなくなっていることに気づき、急に寂しくなって泣きだしました。作業員が10人ぐらい集まってきて、訳を聞きました。「それじゃ、行ってみてやろう」と、青年監督官2人が、救助しようと池に飛び込みました。しかし、二人とも池へ入ったまま姿が見えなくなってしまいました。やがて3人は30分ほどして、ようやく東北の水底から引き上げられました。東村山から医者が来て、水を吐かせ、へそにお灸をすえました。「これで反応がなければ、ダメだ」と医者が言いました。結局、3人が池で亡くなりました。昔は、医者がお灸を持っていたようです。
狭山に住んでいたたっちゃんは、関田辰夫君といい10歳の子供でした。河童みたいに泳ぎが上手で、すばしっこい子だったそうです。どうやら、池の中の地盤調査用ボーリング穴にはまって溺れたのではないかとのことです。この悲惨な出来事のあと、ヤケチョは「たっちゃん池」と呼ばれるようになりました。
(たっちゃんの2歳下の従兄弟、田那部新三郎氏(たなべ文具店)談)
たっちゃん池(正式名称は宅部池) | 「村社」とあるのは、宅部村のこと |
宅部池にできたウッドデッキ(平成21年4月) | 湧水の池(たっちゃん池の西側) |
宅部池のかいぼり(平成28年1月17日) | 宅部池の水源 |
2−3 多摩湖の花火
昭和5(1930)年1月23日、国分寺〜萩山を営業していた多摩湖鉄道(現西武鉄道多摩湖線)は、村山貯水池駅(現武蔵大和駅)まで延長開通させました。(親会社は、箱根土地株式会社)
当時利用客の少なかった路線の宣伝とサービスのため、夏季の土曜日の夕方から花火を打ち上げ、見物に来る乗客の増員に努めました。たっちゃん池の東側(現太陽広場)で仕掛け花火や打上げ花火をあげました。直径3尺の大筒打上げ花火は、今の西武遊園地あたりに仕掛けていました。見物客は、貯水池堰堤の芝生の上にゴザを敷き見物しました。
その頃、多摩湖駅(現西武遊園地駅)までの延長工事をしていましたが、八坂よりにあった村山貯水池駅は、現在の武蔵大和駅の場所に移され、昭和11(1936)年12月30日の全線開通と共に駅名も改称されました。花火もこの年の夏で終わったようです。
近年は、毎年夏の土日に西武遊園地の花火大会があり、多摩湖の下堰堤は多くの見物客で混雑します。
※ 武蔵村山市観光納涼花火大会
毎年8月の最終週の土曜日に武蔵村山市観光納涼花火大会が開催されます。今年(平成18年)は8月26日(土)で第28回を数え、歴史ある花火大会として地元や近隣の住民に親しまれてきました。(参考:隅田川花火大会は今年で29回目) スターマインをはじめ約2000発の花火が打ち上げられ、模擬店やアトラクション(盆踊り、おはやしや太鼓などの郷土芸能)も楽しむことができ、まさにお祭り気分です。会場には駐車場がありませんので、徒歩又はバスを利用します。
主催:武蔵村山市商工会、後援:武蔵村山市
開催時間:イベント14:00〜21:30、花火打ち上げ19:40〜20:40
花火観覧会場:野山北公園運動場(武蔵村山市本町5-31(かたくりの湯の西側))
花火打ち上げ場所:東側(多摩湖側)山林(武蔵村山市中央5-24(かたくりの湯の東側))
(問い合わせ先:武蔵村山市商工会042-560-1327)
西武遊園地の花火(現在) | 武蔵村山市観光納涼花火大会(現在) |
2−4 多摩湖の野外映画
昭和8(1933)年頃、多摩湖鉄道では路線の宣伝とサービスを兼ね、村山下貯水池堰堤のあたりで土曜日の夜に花火を打ち上げていましたが、それとあわせて武蔵大和駅の西北の大久保家の屋敷神として祀ってあるお稲荷様の広場で映画を上映していました。
毎週土曜日になると鉄道会社の人が電車で運んできた丸太を組んでスクリーンを張りました。丘陵地は西に少し高くなっていくので、東向きにスクリーンを作りゴザを敷き、暗くなると映画が始まりました。
電車の乗ってきた人はサービスとして入場無料、その他の人は入口で入場券を買いますが、20銭位だったそうです。当時人気のあった俳優は、榎本健一、上原謙、高峰秀子、その他大勢いたようです。娯楽施設のない頃でしたので、入場者はかなり多かったとのことです。野外なので寒い季節は休みでした。
昭和11(1936)年、多摩湖鉄道が全線開通になる少し前の頃まで上映していたようです。
2−5 アルペンロードと菩提樹池
多摩湖の北側の住宅地には、狭山湖から東村山浄水場まで水道管が埋設され、都民の飲料水を運んでいます。この部分は本来の道路ではありませんが、土手などを形成しアルペンロードと呼ばれています。かたわらの原っぱは、その形がグランドピアノのフタの形をしていることからピアノ広場と呼ばれているようです。
また、多摩湖の北側で、西武球場前駅の東にある狭山湖畔霊園の南側の林の中には、菩提樹池(ぼだいぎいけ)があります。この池は、かつて下流部一帯に広がっていた水田に水を供給するため池でした。しかし、水田が使われなくなると池の管理も行われなくなり、池の半分は上流からの土砂で埋まってしまいました。現在は、地域住民によりこの池の管理作業が行われています。耕作されなくなった水田も地主と自然保護団体が協力し、菩提樹たんぼとして維持されています。
埼玉県は、平成20(2008)年9月4日、菩提樹池周辺緑地を「まちのエコ・オアシス保全推進事業」の保全候補地に選びました。これは、都市周辺の多様な生き物が暮らす貴重な水辺空間や平地林などを、彩の国みどりの基金を活用し、次世代に引き継いでいく事業です。菩提樹池周辺の私有地は、公有地化に向け交渉が進められることになるそうです。
アルペンロードとピアノ広場 | 西武遊園地近くのアルペンロード(狢入り) |
密厳院(「菩提樹村の由来」の石碑あり) | 翁樹神社の菩提樹(菩提樹村由来の名木) |
菩提樹田んぼ (夏) | 菩提樹田んぼ(冬) |
菩提樹池(下流側) | 菩提樹池(上流側) |
※ 2010年3月、菩提樹池のまわり3か所に新しい木橋が整備され、1周できるようになりました。
2−6 廻田緑道と廻田の丘
廻田緑道は、多摩湖の東側にあり、上記のアルペンロードから西武園を経て東村山浄水場に通じる埋設水道敷の一部を散策道として整備したものです。緑道上の廻田の丘からは、多摩湖の下堰堤、西武園の観覧車、八国山緑地などが見渡せ、気持ちの良い展望スポットになっています。
廻田緑道(廻田の丘付近) | 廻田の丘からの多摩湖下堰堤 |
○ 多摩湖町1丁目第1仲よし広場
廻田緑道の北側には、「多摩湖町1丁目第1仲よし広場」の桜並木があります。幅約10m、長さ約150mのこの細長い公園は、廻田緑道の延長線上にあり、もちろん地中には山口貯水池から東村山浄水場へ送水する導水管が通る水道局用地です。
ただ、この細長い空間だけ桜並木になっているのが、とても不思議な感じです。どうしてここだけ桜並木になっているのか、地元の方に聞いたことがあります。その方の話によれば、以前、ここはひどいヤブでしたが、昭和41〜42年頃、地元の人たちが貯水池の桜を真似して遊歩道にしようと、水道局の許可をもらって桜の苗を植えたそうです。それが成長し、ここだけが桜並木になったというわけです。
昭和51年4月には「第1回多摩湖町さくらまつり」が開催され、それ以後毎年実施されてきました。平成18年4月1日には「夢の遊歩道開通三十周年記念」の杭が北側に設置されました。
現在この公園広場は、東村山市が水道局から借り受け管理しているそうです。
多摩湖町1丁目第1仲よし広場の桜並木 | 夢の遊歩道開通三十周年記念の杭 |
2−7 行人塚(姥捨て山=多摩湖の心霊スポット?)
多摩湖の湖底に沈んだ村の南側に続く狭山丘陵に、大筋端(おおすじばた)という場所があります。その山の中に塚があり、足腰の立たなくなった老人や、行き倒れの病人たちが、静かに死を待つ場所(姥捨て山)であったという言い伝えがありました。
元禄のころ、一人のお坊さんがここを通りかかり、あまりに悲惨な様子を悲しみ、里人たちにその供養を頼みました。それ以後、お坊さんの打つ鉦(かね)の音がひびくと、里人たちは山に登り、死人を手厚く葬るようになりました。このため、村の人々はこの塚を行人塚(ぎょうにんづか)と呼ぶようになりました。江戸時代まで、ここには風化した人骨があったとか、夜などに死人の怨念が人魂になって飛ぶのを見たとか言う人がいたそうです。
現在でも、行人塚と思われる塚が、下貯水池の南側中央あたりに残っているそうです。(水道用地内のため立入禁止です。)
(大筋端:現在の東大和市多摩湖4丁目、湖畔1・2丁目のあたりの旧地名)