写真編8:多摩川源流周辺

多摩川源流周辺のスナップ写真です。

多摩川の源流は、「笠取山・水干」とされています。

明治11(1936)年9月27日〜10月2日、東京府吏土木責任者の山城祐之は、玉川泉源巡検の調査行い、案内人に地元猟師の楠籐五郎を雇い、水干に到達しました。(※注記参照)

 

【小さな分水嶺】

笠取山の南西にあるこの小さな峰は、三つの河川の分水嶺になっています。
この峰の北側に降った雨は、関東平野の西部を潤す「荒川」となり、東京湾に注ぎこみます。
西側に降った雨は、甲府盆地を南下した後、富士山の西側を通り太平洋に注ぐ「富士川」となります。
そして南側に降った雨は、奥多摩湖に貯えられた後、「多摩川」となって都民の生活用水となり、東京湾に注ぎこみます。
背後に見えているのは、笠取山です。

【笠取山】

江戸時代末期から明治年代にかけて、焼畑が原因となり山火事が多かったため、森林が失われ裸山が広がっていました。少し雨が降っただけでも、山崩れや洪水が発生し、雨の降らない日が続くと、すぐに川は干上がってしまったのです。明治の末期、危機感をつのらせた東京府は、安定した水道用水の確保のため、多摩川上流域の土地を買い入れ、自ら森林の再生に乗り出しました。

【笠取小屋】

この付近の多くの山小屋は、荒地に苗木を植えたり、手入れをしたりするための基地として、大正年代以前に東京市により建てられました。小屋は、山で作業をする人が泊り込んで利用したことから、「造林小屋」と呼ばれました。しかし、林道が整備され、日帰りで仕事ができるようになると、その役目も終わり、地元にその管理が移管されました。

(笠取小屋:標高1776m)

【水干(みずひ)】

多摩川の源流・水干は、沢の行き止まりの意味で名付けられたものです。すぐ上の稜線付近に降った雨は、いったん土の中にしみこみ、ここから約60m下で湧き水となり多摩川の最初の流れとなります。この流れは、水干沢、一ノ瀬川、丹波川となり、奥多摩湖に流れこみ、そこから多摩川と名を変え、138kmの長い旅を経て、東京湾に注ぎこみます。

(水干:標高1865m) 

【水神社】

水干の真上を見上げると、水神社と書かれた祠があります。

【笠取山頂上】

山梨県百名山の標識がある頂上は、西峰にあり、眺望がとてもすばらしいです。

【笠取山三角点】

笠取山の頂上の三角点は、東峰にあります。山頂は狭く、見晴らしもききません。

(笠取山:標高1953m)

【一ノ瀬川】

一ノ瀬高原の作場平付近の一ノ瀬川です。

(作場平:標高1310m)

☆☆☆

【雲取山頂上】

雲取山は、東京都の最高峰(標高2017.1m)です。東京都の最西端にあり、山頂は、東京都、山梨県、埼玉県の三都県の境をなしています。奥多摩で唯一、深田久弥の「日本百名山」に選ばれています。

(ちなみに、東京都23区最高峰は、新宿区の戸山公園にある箱根山(標高44.6m)だそうです。)

【雲取山荘】

雲取山頂から北へ約20分下った尾根上にあります。富田治三郎氏(鎌仙人)が1928年に建設した「雲取山の家」が前身で、現在はその後を引き継いだ新井信太郎氏が経営しています。平成11(1999)年10月に秩父鉄道より経営権を譲り受け、私財を投じて個室重視のログハウス風の山小屋にリニューアルしました。

【鎌仙人の碑】

雲取山頂と雲取山荘との間にあります。富田治三郎氏は、山行の際には常に腰に鎌を差して歩いたので、鎌仙人の愛称がついたそうです。「富田新道」などの登山路を開き、尽力されました。

この碑は、昭和51年7月に秩父山岳連盟により建立されました。(碑文

☆☆☆

【奥多摩湖:小河内貯水池】

奥多摩湖は、小河内ダムによりせき止められてできた湖です。
東京の急激な発展や水使用量の増加により給水需要は増加の一途をたどり、第一水道拡張事業(村山・山口貯水池の建設)の完了を待たずに、新しい拡張事業(小河内貯水池及び東村山浄水場の建設)が計画されることになりました。
昭和7年7月 東京市会において第ニ水道拡張事業を議決
昭和11年7月 事業認可

【小河内ダム】

ダムの天端から下流側を見下ろした写真です。

小河内ダムの建設は、昭和13年11月に始まりましたが、戦争のため昭和18年10月に工事は中断を余儀なくされました。昭和23年9月に工事が再開され、昭和32年11月に完成しました。

ダムは、高さ149m、長さ353mの重力式コンクリートダムで、有効貯水量は185,400,000m3です。

【鶴の湯源泉】

鶴の湯温泉は、南北朝時代から約600年の歴史があり、江戸時代には伊豆方面に比べ江戸に近いことから、湯治場として栄えましたが、小河内ダム建設により湖底に沈んでしまいました。
平成3(1991)年、水没した「シカの湯、ムシの湯、ツルの湯」の三つの源泉を合流して、湖底からポンプで汲み上げて、「鶴の湯温泉」として復活しました。
アルカリ性単純硫黄温泉、泉温30.2度、ほとんど無色透明で、飲泉もできるそうです。

【白丸ダムと白丸湖】

東京都交通局が所管するダムで、多摩川の水を利用して発電を行っており、発電した電気はすべて東京電力に送電されます。

ダムは、高さ30.3m、長さ61.0mの重力式コンクリ−トダムで、二段式ローラーゲート2門を備え、昭和38年2月に使用を開始しました。

☆☆☆

【獅子口】

奥多摩の川苔山(1363.3m)の北東面を流れる多摩川の支流・大丹波川の源頭に獅子口の湧水があります。(奥多摩町大丹波)

獅子口の湧水は、ライオンの口のように見える大岩の中から、山の水がこんこんと湧き出ています。以前はすぐそばに、獅子口小屋という山小屋があったそうですが、その跡が広場となって残っているだけです。

☆☆☆

【百尋の滝】

奥多摩の川苔山(1363.3m)の西面を流れる多摩川の支流・日原川の川苔谷に百尋の滝があります。(奥多摩町氷川)

百尋の滝は、落差40mで、奥多摩で最も美しく有名な滝です。

【聖滝】

聖滝は、百尋の滝へ行く途中にありますが、川乗林道からは見えません。

1986年10月26日に聖滝の洞穴湖(聖穴)探検に行って戻らなかった上智大4年生の憶念鎮魂の碑が、林道わきの岩にあります。(碑文)(25年後、遺体が発見され、2011年11月13日に引き揚げられました。)

聖滝は、落差はそれほどありませんが、周囲が石灰岩のため独特な雰囲気があります。この奥にも聖滝の続きや聖穴があるそうです。

☆☆☆

【三ツ釜の滝】

奥多摩の大岳山(1266.9m)の北面を流れる多摩川の支流・海沢谷に「海沢の四滝」があります。(奥多摩町海沢)

三ツ釜の滝は、海沢園地の上流にあり、落差18.3mの三段に落ちる滝です。雨乞いの伝承があるそうです。

【ネジレの滝】

ネジレの滝は、三ツ釜の滝の上流にあり、「く」の字形をした落差10.8mの二段に落ちる滝です。落差はそれほどでもありませんが、その水音の大きさと荘厳な雰囲気に圧倒されます。

【海沢大滝】

海沢大滝は、ネジレの滝の上流にあり、落差23mの段瀑です。

「不動の滝」は、大滝の上流にある落差10mの直瀑ですが、安全対策上、近くに寄って見ることはできません。

☆☆☆

【白糸の滝】

大菩薩嶺(2056.9m)の東側を流れる小菅川の今倉沢に白糸の滝があります。(山梨県北都留郡小菅村)

明治10(1877)年、藤村県令(県令とは現在の知事)が小菅村を視察した帰路、大菩薩峠を越える際にこの滝を見学しました。水量は少ないが高さ36mで、深山幽谷の断崖から滑り落ちる真清水が、一条の白い糸のようであったので、「白糸の滝」と命名されました。

また、この滝の淵には、昔から龍が住んでいると伝えられています。

【雄滝】

雄滝は、白糸の滝の上流の小菅川本流にあります。(山梨県北都留郡小菅村)

落差は15mほどですが、古来この滝は、滝の中央にある岩が男性のシンボルに似ていることから「雄滝」と呼ばれました。この滝のしぶきにかかると男性の精力増進に役立ち、子宝に恵まれない人が参拝するとご利益があるそうです。
雄滝の上部には、大菩薩連嶺の石丸峠があります。昔この峠付近には、自然石の石魔羅があり、子授けの祠として祭られていたので「石磨羅峠」と呼ばれていました。昭和3年、陸軍の陸地測量部が5万分の1地形図を改訂する際に「石丸峠」の当て字を採用したそうです。現在、石まらは残っていません。

☆☆☆

【払沢の滝】

奥多摩の松生山(933.7m)の北東面を流れる北秋川のセト沢に払沢の滝があります。(檜原村本宿)

払沢の滝は、日本の滝百選にも選ばれている名瀑で、下から見えるのは一の滝で、落差26mあります。四段に分かれ、全長は60mにも達し、滝壺には大蛇が棲んでいたと伝えられています。冬季になると結氷し、檜原村では最大結氷する日を当てる「氷瀑クイズ」を行っているほか、毎年8月中旬に滝祭りが催行され、滝のライトアップが行われます。

なお、この滝の水は多摩湖には来ません。秋川が多摩川に合流するのは、羽村堰の下流だからです。

【金剛の滝】

奥多摩前衛の今熊山(505m)の北面を流れる秋川の支流・逆川に金剛の滝があります。(八王子市上川町)

金剛の滝は、落差約18mで、名前は、滝の左に金剛力士像が彫ってあることに由来するそうです。手前にある洞窟を抜けると、滝壺の前に立つことができる劇的な滝です。

なお、この滝の水も多摩湖には来ません。

☆☆☆

【日原鍾乳洞】

日原鍾乳洞は、今から1200年前の発見といわれ、洞内は年中11℃だそうです。

日原鍾乳洞は、かつて「一石山御岩屋」「一石山大権現」と呼ばれ、鍾乳石、石筍、石柱を諸仏にみたて、信仰の対象でした。

昭和37年に発見された新洞は、特に石筍と石柱の発達が著しく、関東第一と激賞されているそうです。(奥多摩町日原/0428-83-8491)

【梵天岩】

梵天岩は、日原鍾乳洞の近くにある高さ90mの細長い岩です。石灰の多い日原の地質が創り出した造形品の傑作と言われています。

☆☆☆

【倉沢のヒノキ】

推定樹齢1000年、幹囲6.3m、樹高34mの巨樹です。東京都指定天然記念物で、新日本名木百選(平成2年6月)に選ばれています。

倉沢のヒノキは、都道日原線の倉沢橋から山道を約15分登った尾根筋にあります。なお、倉沢橋は、高さが61mあり、東京都で一番高い橋だそうです。(奥多摩町日原)

【大楢峠のコナラ】

樹齢不明、幹囲4.2m、樹高27mの巨樹です。樹勢がすっかり衰え、太い枝も折れてしまいました。御岳山裏参道の大楢峠にあります。(奥多摩町海沢)

このコナラは、多摩東京移管百周年記念事業「TAMAらいふ21協会」が1993年に立川市の国営昭和記念公園で開催した「多摩21くらしの祭典VOICE93」のテーマ館のテーマ映像にも登場した名木です。VOICE93は観客数が伸びず、赤字を抱えたまま終了し、後の東京フロンティア「世界都市博覧会」の中止にも影響を与えました。

☆☆☆

【玉川水神社(鳩の巣)】

玉川水神社は、一心亭の前の朱塗りの水神橋を渡った先、多摩川の側の「鳩の巣」と呼ばれる岩山の上にあります。(背後に見えているのは、鳩の巣小橋です。)

昔から多摩川守護と称する神社は、当社を古社とし、玉川上水完成により羽村取水堰に水神社が、大正2年に多摩川の源頭水干に水神社が祀られました。玉川水神社の草創は、年代はつまびらかではありませんが、棚沢集落の開村発展と関わったものであろうと考察されるそうです。

【鳩の巣渓谷】

鳩の巣小橋から見た玉川水神社のある岩山です。(左手の朱色の橋が水神橋です。)

鳩の巣の由来は、明歴3(1657)年1月19(18?)日、江戸に振袖火事(江戸三大大火の一つの「明暦の大火」)があった時、江戸の町の復興のため、氷川・日原・丹波山の良材を伐採し、多摩川を利用して運搬することになり、当地にも飯場小屋が建てられたが、たまたま玉川水神社の森に2羽の鳩が来て巣を作り仲睦まじかったことから、鳩の巣飯場と呼ばれ、いつしか地名のごとく呼称されるようになったそうです。

※ 多摩川の源流:笠取山水干と水神社の由来について

○ 玉川泉源巡検記(山城祐之著)など

明治11(1878)年9月27日〜10月2日、東京府吏土木責任者の山城祐之は、多摩川上流域の調査を行いました。これは、降雨ごとに濁水する原因究明のため、水源をつきとめ清濁の理由を探ることを目的としたものでした。

山城祐之は、羽村から玉川をさかのぼり山梨県下甲州都留郡神金村字一ノ瀬に至り、水源を尋ねると、約1里余りの深山に湧き出していると言います。案内者として猟師の楠籐五郎を雇い、水脈に沿って泉源にたどり着くと、水干の下に巨大な花崗岩があり、その下から氷のように冷たい清水が湧き出していました。(9月30日到達)

「玉川泉源巡検記」は、この6日間にわたる探索の記録で、明治13年6月に東京府知事松田道之に報告されました。報告では、多摩川の水源地は水干の地であること、濁水の原因は小河内温泉から下流の万年橋までの間に石灰質の石が多いことが明らかにされています。なお、当時多摩川は、玉川、多磨川、多波川とも呼ばれていたようです。

水干の水神社については、大正7(1918)年4月26日、萩原山水干に玉川水神社の奥宮として水神社の造営に着手しました。同年5月21日、水神社奥宮の造営工事が完成し、東京市長の田尻稲次郎の臨席のもとに鎮座祭を挙行し、翌22日に落合において祝典を挙行したそうです。

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