写真編5:さいたま緑の森博物館周辺

 

さいたま緑の森博物館周辺のスナップ写真です。

【展望広場のシンボルツリー(エノキ)】

さいたま緑の森博物館は、雑木林そのものを野外展示とした博物館です。展望広場には、シンボルツリーのエノキがあり、「トトロの木」と呼ばれているようです。

【水鳥の池】

さいたま緑の森博物館の案内所そばにあります。大谷戸湿地の最下部で水をせき止めて作った池です。

【大谷戸湿地】

かつては、田んぼがあった所で、しばらく休耕田として放置され荒れていましたが、緑の森博物館整備事業で手入れされ良好な環境になりました。

【トンボの湿地】

大谷戸湿地の奥にある湿地です。

【西久保湿地】

大谷戸湿地と同様、以前は田んぼがあった所で、上流側は湿地として残し、下流側は田んぼを復活させたそうです。

【宮寺大日山の大日如来像】

大日如来は、真言密教の本尊です。おまん坂の脇の宮寺大日山には、2体の石造大日如来像が祀られています。手前には2基一対の供養塔があります。

【ハタヤの稲荷】

平成21年に公開されたアニメ映画「ホッタラケの島」に登場して以降、赤い鳥居が建ちました。

【山際観音堂】

赤い屋根のお堂は2間四方の小さなものですが、狭山丘陵を背に茶畑が広がり、何とものどかな雰囲気です。本尊は十一面観世音だそうです。

【糀谷八幡湿地】

糀谷の八幡神社のそばにあり、周囲を樹林で囲まれ、湿地を1周することができます。(1周5分程度)

【糀谷八幡神社のトトロ】

糀谷八幡神社にあるトトロです。身の丈2m以上ありそうな、大きなものです。

初代のトトロは神社の境内にありましたが、新しいトトロは神社と八幡湿地の間の広場(駐車場)の片すみにいます。

新しいトトロは、平成19年6月頃に作られたようで、名前は八幡湿地のアイドル「トコロちゃん」となっていました。

【比良の丘】

この高台は、本当に気持ちが良い場所で、異空間にでも来たような感じがします。

「千と千尋の神隠し」の中で描かれる、トンネルをぬけた所にある草原のようで、お気に入りの場所です。

この丘の北側には、山ノ神神社があります。

【比良の丘からの景色】

早稲田大学キャンパス方面の景色です。

【山ノ神神社入口】

この鳥居をくぐり薄暗いつづら折の参道を上がっていくと、本殿に出ます。昔このあたりでは、山の樵仕事が多く、仕事の安全を祈願した山の神信仰がさかんだったようです。

本殿の上は、比良の丘です。

【蛇崩湧水】

トトロの森18号地(所沢市堀之内374)の東側にある「蛇崩湧水」が整備されました。(「蛇崩」は、昔の字名)

以前は土管のようなものが、縦に埋められていました。

【金仙寺(こんせんじ)のしだれ桜】

所沢市堀之内にある金仙寺は、今から約千百年前に覚堂という僧が、弘法大師が作った阿弥陀如来像を本尊として、現在地の西方「堂入り」に開山したと伝えられています。

所沢市の保護樹木指定の「しだれ桜」は、樹齢120年余の名木といわれています。

【金仙寺西側の休憩所とお地蔵様】

萱葺き屋根の休憩所、庚申塔、お地蔵様などが立っています。

近くの三ヶ島墓苑には、俳優の左卜全(ひだりぼくぜん)のお墓があります。

歌人の三ヶ島葭子は、異母姉です。

【三ヶ島墓苑の冠木門(左卜全のお墓)】

冠木門は、東京都世田谷区にあった俳優・左卜全の自宅にあったものを出生地の三ヶ島家の墓苑に移築したものです。
左卜全(ひだりぼくぜん、本名:三ヶ島一郎(1894−1971))は、おとぼけと特異な芸風で名脇役として、黒沢明監督の映画「白痴」「生きる」「七人の侍」「どん底」などに出演しました。晩年には、レコード「老人と子供のポルカ」を出し、「ズビズバー、パパパヤ。ヤメテケレ、ヤメテケレ、ヤメテケーレ、ゲバゲバ。」などと歌って、人々に広く愛されました。
中に入ると、左卜全と夫人のお墓があります。

【三ヶ島葭子の歌碑(中氷川神社)】

所沢市三ヶ島5丁目の中氷川神社には、歌人の三ヶ島葭子(みかじまよしこ(1886−1927))の歌碑があります。

「春の雨 けぶる欅の梢より
をりをり露の かがやきて落つ」

俳優の左卜全は、異母弟です。

【三ヶ島葭子資料室】

所沢市三ヶ島公民館には、三ヶ島葭子資料室が併設されています。
(所沢市三ヶ島5-1639-1 電話042-948-1204)

三ヶ島葭子(みかじまよしこ、本名:倉片よし(1886−1927))は、少女の頃から短歌に親しみ、新詩社、青鞜社に入り、「女子文壇」「青鞜」「スバル」などに短歌を発表、与謝野晶子の指導を受けました。結婚後は、島木赤彦の門に入り、「アララギ」に短歌を発表しています。大正10年に唯一の歌集「吾木香(われもこう)」を自費出版しました。

【三ヶ島湿地】

三ヶ島湿地は、早稲田大学の敷地内にあり、立ち入ることはできません。

【堂入の池】

三ヶ島湿地の最奥部にあります。「堂入池」

【フッパリの池】

三ヶ島湿地の中ほど南側にあります。「吹張池」

【別所池】

2期整備予定地である所沢エリアにあります。

トトロの森5号地の北側の、ワイヤの張られた柵沿いに、道なき道を東側へ降りて行くと、辿り着けます。

【和幸の森】

この森を平成5年9月に所沢市に寄贈した和田茂氏の父君・和田幸一氏にちなんで名づけられました。

【ふれあい湿地】

早稲田大学所沢キャンパスの南東側にあります。

【クロスケの家の看板】

クロスケの家の入口にかけられました。

 

 

※ 入間市宮寺の縄竹地区について

【縄竹公会堂】

入間市宮寺の北にある縄竹地区は、山口貯水池の建設工事のため昭和5年に宮寺村の旧・縄竹地区の村民たちが移住した場所です。(「縄竹公会堂前」のバス停あり)

移住した村民たちは、古い時代からの里名「縄竹」を消すに忍びず、移転地の名称もまた「縄竹」としたものです。

西方には、縄竹共有墓地があります。

【移転記念碑】

縄竹公会堂の前にあります。

昭和5年12月15日に移転披露式を挙行したそうです。

宮寺村の旧・縄竹は、北の寒風も南風も当たらない桃源郷で、縄竹新道から西側を上縄竹、東側を下縄竹に分け、村民は共同心が強く、禅寺丸という柿は名産品だったそうです。

山口貯水池の完成により、下縄竹は水没、上縄竹は水源林内となりました。

(碑文概略)

宮寺村の旧・縄竹は、山間の小村落で戸数33戸、柳瀬川がその中央を流れ、村民は質素で郷土愛に富み、土地は肥沃で農作物がよくとれ、特に柿は名産品であった。昭和2年東京市の水道拡張計画により第二貯水池として、山口村とともにまさに買収されようとするや、先祖代々住み慣れた土地を去るに忍びず再三にわたり陳情したが、昭和3年買収はやむを得ないこととなった。耕作地として東金子村上原に求め随所に転居することになったが、同志の24戸は永年の情が忘れがたく行動を共にしようと、地主の好意により当地5町歩を得て、ここに初めて一箇所に居を定めることができた。昭和5年に工事に着手し、同年12月15日移転披露式を挙行した。よってその由来の概略を刻して記念とする。

移転者氏名
石川姓14名 田中姓4名 大野姓3名 山崎姓1名 久保田姓1名 中姓1名 合計24名
昭和5年12月建立

 

 

(碑文)

(正面碑文)

移轉記念碑(題額)

宮寺村舊繩竹ハ縣ノ南端東京府ニ接シ山口村ノ隣スル山聞ノ一小村落ニシテ戸數三十三戸南北ニ丘陵ヲ控エ柳P川其中央ヲ流レ山水明媚閑靜ニシテ村民質素共同一致殊ニ愛ク心ニ富ミ土地肥沃ニシテ農作物能ク繁茂シ砂礫壤土ナルガ故ニ果樹ノ栽培ニ適シ殊ニ柿ハ此ノ地ノ名産ニシテ其味優秀年産額數千圓ニ上ル頗ル生活シ易キ所ナリキ昭和二年東京市ノ水道擴張設計成リ第二貯水池トシテ山口村ヲ指定スルニ當リ繩竹ハ其區域内ニ属シ將ニ買収セラレントスルヤ村民先祖累代住ミ馴レシ墳墓ノ地ヲ去ルニ忍ビズ再三委員ヲ上京セシメ陳情セシモ遂ニ昭和三年買収セラルルヲ止ムヲ得サルニ至レリ茲ニ於テ耕作地トシテ東金子村上原ニ求メ居所ヲ定ムルニ當リ各自東奔西走皆其意志ニヨリ隨所ニ轉居スル事トナレリ依テ同志ノ者二十有四戸永年ノ情忘レ難ク相會シ行ヲ共ニスヘク當所ヲ相スルニ當リ村有志者並ニ地主ノ同情ト諒解トニヨリ當地約五町歩ヲ得テ茲ニ始メテ一所ニ居ヲ定ムルニ至リ昭和五年工事ニ着手シ同年十二月十五日移轉披露式ヲ擧ケタリ爾来移轉經營ニ寢食ヲ忘レ亦寧日ナシ茲ニ漸ク一小村落ヲ形成スルコトヲ得タリ依テ其由來ノ概略ヲ刻シテ記念トナス

(裏面碑文)

移轉者氏名

石川 佐助 大野善太郎 山崎 利八 石川 其助 田中勇次郎 
石川  源 石川園之助 石川八五郎 田中松五郎 石川 石蔵 
石川丑太郎 石川 源重 田中 正作 田中桝五郎 大野 勇吉 
久保田保司 石川治三郎 石川 米藏 石川 春吉 中  定吉 
石川 寛長 石川 坂藏 大野 平吉 石川 喜助 

昭和五年十二月建立       豊岡町石要刻

 

 

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